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流木作品

ニスなど一切塗らず制作する伝統的な技法を指導しております。

流木作品 (流木ア-ト)y@12


八坂5 すみ
流木作品 (流木ア-ト)y@12
京都流木民芸(創作アドバイス)

京都の社寺仏閣(ライトアップ)
八坂の塔(やさかのとう)正式名、法観寺 (ほうかんじ)京都市東山区清水八坂上町388
街中にそびえ立つ通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は、寺自体を指す通称ともなっている。
伝承によれば、当寺の五重塔は592年聖徳太子が妙意輪(にょういりん)観音の夢告により建てたとされ、その際、仏舎利を三粒を収めて法観寺(ほうかんじ)と号したという。平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かなようであり、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力であるという。


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  1. 2023/03/24(金) 03:14:18|
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流木作品 (流木ア-ト)y@13


竹寺4すみ
流木作品 (流木ア-ト)y@13
京都流木民芸(創作アドバイス)
竹の寺(たけのてら)谷の地蔵(たにのじぞう)京都市西京区山田北ノ町23
正式名称、衣笠山・地蔵院(じぞういん)
一休さんでお馴染みの一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は幼少時、地蔵院(じぞういん)で修行したと伝えられている。地蔵院は、衣笠山(きぬがさやま)と号する臨済禅宗の寺で、通称、谷の地蔵(たにのじぞう)、又は、竹の寺(たけのてら)とも呼ばれている。この地には、もと歌人の藤原家良(ふ<じわらのいえよし)の山荘があったが、家良(いえよし)の没後、貞治6年(1367)に、室町幕府の管領であった武将細川頼之(ほそかわよりゆき)が、宗鏡(そうきょう)禅師に深く帰依して当寺を創建した。


  1. 2023/03/21(火) 03:00:46|
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流木作品 (流木ア-ト)か1


等持院秋3
流木作品 (流木ア-ト)か1
京都流木民芸(創作アドバイス)
京都の社寺仏閣(ライトアップ)
等持院(とうじいん) 庭園 足利将軍家の菩提寺 京都市北区等持院北
足利将軍家の菩提寺として歴応四年(1341)足利尊氏(たかうじ)が等持院の別院として夢窓国師(むそうそせき)を開山に創建。尊氏(たかうじ)の死後、別院等寺院は尊氏の墓所となり等持院と改める。
歴応二年(1341)足利尊氏が別場所に等持院を建立するが二年後、現在地へ別院北等持院をも建立する。足利尊氏の死後、別院北等寺院(現在の等持院)は尊氏の墓所となり、寺名を等持院と改称する。その後、応仁の乱(おうにんのらん)で別場所にある本寺が焼失したため、現在の等持院が本寺となる。


  1. 2023/03/20(月) 04:35:07|
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流木作品 (流木ア-ト)y@11


落柿3
流木作品 (流木ア-ト)y@11
京都流木民芸(創作アドバイス)
京都の社寺仏閣(ライトアップ)
落柿舎 (らくししゃ)、NO3 京都市右京区嵯峨小倉山緋明町20
落柿舎(らくししゃ)は元禄の俳人 向井去来(むかいきょらい)の遺跡である。長崎生まれで京都に移り住み俳諧の道に入り松尾芭蕉(ばしょう)一門へ入門する。その後、去来は芭蕉一門の中で第一の俳士(はいし)となり、松尾芭蕉に最も信頼された高弟となる。向井去来(むかいきょらい)が落柿舎(らくししゃ)を営んだのは貞享四年(1687)松尾芭蕉が初めて落柿舎に訪れたのは、二年後の元禄二年(1689)、併せて三度来庵したというなり芭蕉から最も信頼される。松尾芭蕉は生前、落柿舎に三度来庵し嵯峨日記を書いている。
落柿舎の由来は、向井去来の『落柿舎記』(らくししゃのき)には、庭に柿の木が四十本あり、その柿の実が一夜のうちに殆ど落ちつくした、それが落柿舎(らくししゃ)の名の由来と書かれている。


  1. 2023/03/17(金) 13:16:36|
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流木作品 (流木ア-ト)y@10


落柿2
流木作品 (流木ア-ト)y@10
京都流木民芸(創作アドバイス)
京都の社寺仏閣(ライトアップ)
落柿舎 (らくししゃ)、NO3 京都市右京区嵯峨小倉山緋明町20
落柿舎(らくししゃ)は元禄の俳人 向井去来(むかいきょらい)の遺跡である。長崎生まれで京都に移り住み俳諧の道に入り松尾芭蕉(ばしょう)一門へ入門する。その後、去来は芭蕉一門の中で第一の俳士(はいし)となり、松尾芭蕉に最も信頼された高弟となる。向井去来(むかいきょらい)が落柿舎(らくししゃ)を営んだのは貞享四年(1687)松尾芭蕉が初めて落柿舎に訪れたのは、二年後の元禄二年(1689)、併せて三度来庵したというなり芭蕉から最も信頼される。松尾芭蕉は生前、落柿舎に三度来庵し嵯峨日記を書いている。
落柿舎の由来は、向井去来の『落柿舎記』(らくししゃのき)には、庭に柿の木が四十本あり、その柿の実が一夜のうちに殆ど落ちつくした、それが落柿舎(らくししゃ)の名の由来と書かれている。


  1. 2023/03/15(水) 04:53:13|
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