
紅葉と
高桐院 (こうとういん)
大徳寺(だいとくじ)塔頭寺院。
京都市北区紫野(むらさきの)大徳寺町73-1
慶長七年(1602)創建。戦国時代の武将であり茶人としては利休七哲の一人として知られる細川忠興(ほそかわただおき)(三斎)叔父の玉甫紹宗(ぎょくほじょうそう)を開山として創建する。

正保二年(1645)八十三歳で没した三斎(細川忠興)は遺言により高桐院に埋葬され、以後、細川家の菩提寺となる。

庭園は、通称楓の庭と呼ばれる簡素ながら禅寺として趣のある。一面の青苔の中に一基の灯篭が映える。江戸時代初期につくられた庭に、三斎(細川忠興)と通称ガラシャ婦人の墓がある。

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- 2009/11/24(火) 05:05:57|
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ライトアップ&
北野天満宮(きたのてんまんぐう)
京都市上京区馬喰町。
菅原道真(すがわらのみちざね)を主祭神とし学問の神として全国的に知られている神社。毎月25日に縁日が開かれ、多くの参拝者や観光客で賑わう。
特に京都市は大学の町であることもあって揚げられている絵馬には、大学受験合格を祈願するものが多い。福岡県の大宰府(だざいふ)天満宮とともに天神信仰の中心となっており、両天満宮からから全国各地に勧請(かんじょう)が行われている。

平安時代の中期、多治比文子(たじひのあやこ)らによって菅原道真公の御;霊をお祀りしたのが始まりとされている。
延期三年(903)菅原道真が無実の罪で配流(左遷)された大宰府(だざいふ)で没した後、都(京都)では落雷などの災害が相ついだ。これは道真の祟りだとする噂が広まり、御陵信仰(ごりょうしんこう)と結びついて恐れなれた。没後20年目にして朝廷は道真の左遷を撤回し官位を復し正二位を贈る。

江戸時代には菅原道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり寺子屋などで当神社の分霊が祀られていた。

天正十五年(1587)10月1日、境内にて北野大茶会(おおちゃかい)催行され秀吉みずから亭主をつとめ1000人以上の参加者で賑わい、諸家の茶席に秘蔵の名物茶器や道具が展観されたという。その遺跡が一の鳥居の西側に、細川三斎が設けた茶席の井戸が現存している。
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- 2009/11/23(月) 04:31:42|
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紅葉と
黄梅院 (おうばいんいん)
大徳寺・塔頭(たっちゅう)
京都市北区紫野(むらさきの)大徳寺町。
織田信長が父親・信秀の追善菩提のために羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて建立した小庵に始まる。天正十四年(1586)には豊臣秀吉より本堂と唐門が、天正十七年(1586)毛利元就の子・小早川隆景(こばやかわたかかげ)により庫裏(くり)・表門が改築され黄梅庵から「黄梅院」と改められた。庫裏は(くり)、は日本の禅僧寺院において現存する最古のものといわれている。

豊臣秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭(じきちゅうてい)など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。

墓所には、織田信秀(信長の父親)、毛利元就夫婦、元就の息子三兄弟、織田信長の次女夫婦、などが祀られている。


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- 2009/11/22(日) 05:14:48|
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紅葉と
御土居(おどい)北野天満宮、境内
北野天満宮 (きたのてんまんぐう) もみじ苑
京都市中京区馬喰町
豊臣秀吉が土塁として築いた御土居一帯にはイロハモミジなど約250本の自然林が広がる。御土居にはかつて紙漉き場であった紙屋川が流れており、赤や黄に見事に染まった木々が水面に映え、錦秋の世界へ誘う。御土居(おどい)の公開に合わせて、ライトアップが行われるほか、もみじ苑内などでさまざまな催しが行われる。

御土居(おどい)とは、豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として天正十九年(1591)に築いた土塁(どるい)のことである。都市計画の重要な遺構として史跡の指定を受けている。

江戸時代に殆ど取り壊され現存するのは北野天満宮の境内ほか数箇所となっている。その史跡御土居には、現在でもかってからの自然林が残り、四季に応じ様々な美しさを感じることができる。

秋の紅葉は菅原道真がこよなく愛でられた梅と同様に御緑の樹木で、御土居(おどい)一帯には約250本、樹齢350年以上のものも数本残り菅原道真公の御神徳を偲ぶかのごとく鮮やかに彩られる。
御土居の中には川(紙屋川)が流れており、赤や黄に見事に染まった木々が水面に映え渡り錦秋の世界へ誘う。
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- 2009/11/21(土) 05:17:23|
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ライトアップ&清水の舞台 (きよみずのぶたい)
正式名、清水寺本堂(きよみずでら・ほんどう)
京都市東山区清水一丁目
「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と形容される「清水の舞台」江戸時代初期建築の国宝建造物。寝殿造風の建物を中心とし、前方左右に翼廊を出し、その間は板張りの舞台となっている。
舞台は約12メートルの長さで樹齢500年以上の欅の大木の束柱を貫で組み合わせて支えられ、断崖上に架かっている。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が長岡京の紫宸殿を賜って本堂にしたといわれている。

「清水の舞台から飛ぶ…」の諺(ことわざ)があるが、舞楽などを奉納する正真正銘の「舞台」で、両袖の翼廊は楽舎である。舞台からの眺望は、実に絶景。思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査で、「成就院日記」、このほど分かった。
ことわざ通り「飛び降り」の時代背景に「命をかけて飛び降りれば願いごとがかなう」という庶民の信仰があったという。

記録は江戸前期・元禄七(1694)年から幕末の元治元(1864)年までの記述が残っていた。未遂も含め234件が発生した。年間平均は1.6件。
記録のない時期も発生率が同じと仮定すると、江時時代全体では424件になる計算という。男女比7対3最年少は12歳、最年長は80歳代。年齢では10代、20代が約73パーセントを占めた。

清水の舞台の高さは13メートルもあるが、生存率は85.4パーセントと高い。10代、20代に限れば90パーセントを超す。60歳以上では6人全員が死亡している。明治五(1872)年、政府が飛び降り禁止令を出し、下火になったという。

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- 2009/11/20(金) 04:45:32|
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