新・京都想い出めぐり

京都のおっちゃんがあなたの想い出場所へ行き写真を撮ってきます。

蒔絵の寺・(高台寺)


高台寺6の5
蒔絵の寺(高台寺)
京都市東山区高台寺下河原町526

高台寺(こうだいじ)、鷲峰山(じゅぶざん)と号する臨済宗建仁寺(けんにんじ)の寺で、正しくは高台寿聖禅寺(こうだいじゅせいぜんじ)といい、『蒔絵の寺』として広く知られている。

豊臣秀吉・北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)、秀吉の菩提を弔うため、徳川幕府の援助を受けて慶長十一年(1606)に創建した。

高台寺6の3

創建当時、寺観は壮麗を極めたが、度重なる火災に遭い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が当時のまま残っており、いずれも国の重要文化財に指定されている。

北政所の墓所で霊屋(おたまや)には、秀吉夫婦の木像が安置され、須弥壇(しゅみだん)および厨子(ずし)施された高台寺蒔絵として名高い華麗な蒔絵装飾は、室町時代の漆工芸美術の粋が尽くされている。

高台寺6の4

開山堂の臥龍池(がりゅうち)西の偃月池(えんげつち)を中心とする池泉(ちせん)回遊式の庭園は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作と伝えられ、国の史跡・名勝に指定されている。

高台寺6の8

寺宝として、高台院(ねね)像、豊臣秀吉像をはじめ、蒔絵の調度品や絵画、など数多くの文化財を蔵し、その一部は、『高台寺掌(しょう)美術館』で公開されている。

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  1. 2009/07/04(土) 05:40:52|
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北政所・終焉の地

圓徳院6の1
北政所の終焉の地
高台寺塔頭、圓徳院(えんとくいん)
京都市東山区下河原町530

北政所ねね(きたのまんどころ)終焉(しゅうえん)の地として広くしられている圓徳寺(えんとくじ)。豊臣秀吉没後、その妻北政所ねねは、高台寺の建立を発願し、慶長十年(1605)秀吉との思い出深い伏見城(ふしみじょう)化粧御殿と前庭をこの地に移築し移り住んだ。

ねね(北政所)は、七十七歳で没するまで十九年間、この地で余生を送り、その間 北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等が訪れ、この地は ねねの終焉の地となった。

圓徳院6の2

そのねね支えていたのが、兄の足守藩主である木下家定(いえさだ)その次男の利房で、圓徳院(えんとくいん)は、ねね(北政所)の没後九年目(寛永九年)、甥の足守藩主である木下利房が、木下家の菩提寺として開いた寺である。

方丈(本堂)は創建当時のもので、内部の襖(ふすま)には長谷川等伯の三十二両の水墨画が描かれ、国の重要文化財に指定されている。

圓徳院6の3

化粧御殿跡の前庭は、伏見城(ふしみじょう)より移した庭石や枯滝の石組が配された豪華なもので、桃山時代の枯山水庭園の様式を今に伝え、国の名勝に指定されている。

また、境内に奉祀されている三面大黒天像は、豊臣秀吉の守り本尊であり、今日でも多くの信仰を集めている。

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  1. 2009/07/02(木) 22:00:45|
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高台天神、(高台寺鎮守社)


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高台天神 (こうだいてんじん)
京都市東山区高台寺下河原町526

秀吉」と「ねね」の寺で知られている高台寺(こうだいじ)寺地に建つ天満宮は、豊臣秀吉の夫人であった北政所ねね(きたのまんどころ)が、慶長十一年(1606)に高台寺を創建した際、日頃崇拝していた綱敷天満宮の祭神(菅原道真)観請して高台寺の鎮守社としたものである。

創建当初は北政所の兄である足守藩主、木下定家(さだいえ)が社殿を造営して寄進、高台寺山内(上壇の地)建立されていたが年々崇拝の人が増えたために寺外から直接参詣できるようにと社殿を下壇の地(現、圓徳院と春光院の間の地)に移し、以来『下河原の高台天神』と親しまれてきた。

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明治維新の神仏分離令によって、社殿の規模を縮小され再び高台寺(こうだいじ)山内へ移ったが高台寺開創四百年(2006)に際して、現在地へ移し修営されたものである。

学問の神様・菅原道真公をはじめ北政所が秀吉と共に天下統一、出世、長生きされた事に因んで開運・出世・健康長寿・災難厄除などにご利益があるとされる。

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  1. 2009/07/01(水) 21:41:02|
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京都東山区・芭蕉堂


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芭蕉堂 (ばしょうどう)
京都市東山区祇園町南側(大雲院前)

芭蕉堂は、江戸時代中期、俳聖松尾芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に、加賀の俳人・高桑闌更(たかくわ・らんこう)営んだことに始まる。

鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした西行が、この地に阿弥陀房を訪ね、柴の庵と聞くはくやしき名なれども よにこのもしき住居なりけり(山家集)と詠んでいる

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芭蕉は、この西行を心の師とし、西行を慕っての生涯を送ったが、この地で、先の西行の作歌を踏まえて、   しばの戸の月やそのままあみだ堂(小文庫)一句を詠んだ。この句を生かして闌更(らんこう)が営んだのが、この芭蕉堂である。

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堂内には、蕉門十哲の一人、森川許六が刻んだ芭蕉の木像を安置する。毎年四月一二日には花供養、一一月一二日には芭蕉忌が行われる。

なお、東隣の西行庵庭内には、各務支孝(かがみしこう)が芭蕉一七回忌に建てた「かな書の碑」がある。

京都市の案内板より。

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  1. 2009/06/30(火) 13:59:36|
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親鸞の墓所・大谷本廟


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親鸞の墓所・大谷本廟(おおたにほんびょう)
浄土真宗の宗祖・親鸞の墓所
京都市東山区五条橋東6丁目514

大谷本廟(おおたにほんびょう)は宗祖・親鸞聖人のご廟所(墓所)であり、全国の門信徒のご遺骨を納めるころでもある。ちなみに京都では西大谷(にしおおたに)とも呼ばれている。

親鸞聖人は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有僧都(じんうそうづ)の住坊にて90歳で亡くなり、鳥辺山南辺(現在の本廟の「御荼毘所」)で火葬し、遺骨は鳥辺野(とりべの)北辺の「大谷」 に納める。

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その後、聖人の末娘である覚信尼(かくしんに)諸国の門弟の協力を得て、遺骨を吉水の北辺(現在の知恩院山門北側の「崇泰院(そうたいいん)」付近)に改葬し、お堂を建てご影像を安置する。

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この廟は「大谷影堂」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、第八代蓮如(じゅんにょ)宗主時代の「寛正の法難」(1465年)まで、およそ二百年間、諸国の門弟や同行によって護持されてきた。

以後、第十二代准如宗主時代の1603(慶長八)年、徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになる。

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  1. 2009/06/29(月) 15:37:26|
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