北政所の終焉の地高台寺塔頭、圓徳院(えんとくいん)
京都市東山区下河原町530
北政所
ねね(きたのまんどころ)
の終焉(しゅうえん)の
地として広くしられている
圓徳寺(えんとくじ)。豊臣
秀吉没後、
その妻北政所
ねねは、高台寺の建立を発願し、
慶長十年(1605)秀吉との思い出深い
伏見城(ふしみじょう)
の化粧御殿と前庭をこの地に
移築し移り住んだ。
ねね(北政所)は、七十七歳で没するまで十九年間、
この地で余生を送り、
その間 北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等が訪れ、
この地は ねねの終焉の地となった。
そのねね
を支えていたのが、
兄の足守藩主である木下
家定(いえさだ)
とその次男の
利房で、圓徳院(えんとくいん)は、
ねね(北政所)の没後九年目(寛永九年)、
甥の足守藩主である木下利房が、木下家の
菩提寺として開いた寺である。
方丈(本堂)は創建当時のもので、
内部の襖(ふすま)には長谷川
等伯の三十二両の水墨画が描かれ、
国の重要文化財に指定されている。

化粧御殿
跡の前庭は、伏見城(ふしみじょう)より移した
庭石や枯滝の石組が配された豪華なもので、
桃山時代の枯山水庭園の様式を今に伝え、
国の名勝に指定されている。
また、境内に奉祀されている
三面大黒天像は、豊臣秀吉の守り
本尊であり、今日でも多くの
信仰を集めている。
テーマ:京都の写真 - ジャンル:日記
- 2009/07/02(木) 22:00:45|
- 寺
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
高台天神 (こうだいてんじん)
京都市東山区高台寺下河原町526
「
秀吉」と「
ねね」の寺で知られている
高台寺(こうだいじ)
の寺地に建つ天満宮は、豊臣
秀吉の夫人であった北政所
ねね(きたのまんどころ)が、
慶長十一年(1606)に高台寺を創建した際、
日頃崇拝していた綱敷天満宮の
祭神(菅原道真)
を観請して高台寺の鎮守社としたものである。
創建当初は北政所の兄である足守藩主、
木下定家(さだいえ)が社殿を造営して寄進、高台寺
山内(上壇の地)
に建立されていたが
年々崇拝の人が増えたために
寺外から直接参詣できるようにと社殿を下壇の地(現、圓徳院と春光院の間の地)に移し、
以来『下河原の高台天神』と親しまれてきた。
明治維新の神仏分離令によって、
社殿の規模を縮小され再び
高台寺(こうだいじ)山内へ移ったが高台寺
開創四百年(2006)に際して、現在地へ
移し修営されたものである。
学問の神様・
菅原道真公をはじめ北政所が秀吉と共に
天下統一、出世、長生きされた事に
因んで開運・出世・健康長寿・災難厄除などにご利益があるとされる。

テーマ:京都の写真 - ジャンル:日記
- 2009/07/01(水) 21:41:02|
- 神社
-
| トラックバック:0
-
| コメント:1
芭蕉堂 (ばしょうどう)
京都市東山区祇園町南側(大雲院前)
芭蕉堂は、江戸時代中期、
俳聖松尾芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に、加賀の俳人・
高桑闌更(たかくわ・らんこう)
が営んだことに始まる。
鎌倉時代の初め、
諸国を旅して自然を友とした
西行が、この地に阿弥陀房を訪ね、
柴の庵と聞くはくやしき名なれども よにこのもしき住居なりけり(山家集)と
詠んでいる。
芭蕉は、この西行を心の師とし、
西行を慕って
旅の生涯を送ったが、
この地で、先の西行の
作歌を踏まえて、
しばの戸の月やそのままあみだ堂(小文庫)
の一句を詠んだ。
この句を生かして
闌更(らんこう)が営んだのが、
この芭蕉堂である。
堂内には、蕉門十哲の一人、
森川許六が刻んだ芭蕉の
木像を安置する。毎年四月一二日には花供養、一一月一二日には芭蕉忌が行われる。
なお、東隣の西行庵庭内には、
各務支孝(かがみしこう)が芭蕉一七回忌に建てた「かな書の碑」がある。
京都市の案内板より。
テーマ:京都の写真 - ジャンル:日記
- 2009/06/30(火) 13:59:36|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

親鸞の墓所・
大谷本廟(おおたにほんびょう)
浄土真宗の宗祖・親鸞の墓所
京都市東山区五条橋東6丁目514
大谷本廟(おおたにほんびょう)は宗祖・
親鸞聖人のご廟所(墓所)であり、
全国の門信徒のご遺骨を納めるころでもある。
ちなみに京都では
西大谷(にしおおたに)とも呼ばれている。
親鸞聖人は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の
尋有僧都(じんうそうづ)の住坊にて90歳で亡くなり、
鳥辺山南辺(現在の本廟の「御荼毘所」)で火葬し、
遺骨は鳥辺野(とりべの)北辺の「大谷」 に納める。
その後、聖人の末娘である
覚信尼(かくしんに)
が諸国の門弟の協力を得て、
遺骨を吉水の北辺(現在の知恩院山門北側の「
崇泰院(そうたいいん)」付近)に改葬し、
お堂を建てご影像を安置する。
この廟は「大谷影堂」とも呼ばれ、
後に「大谷本願寺」となり、第八代
蓮如(じゅんにょ)
宗主時代の「寛正の法難」(1465年)まで、
およそ二百年間、諸国の門弟や同行によって護持されてきた。
以後、第十二代
准如宗主時代の1603(慶長八)年、
徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転し、
この地を「大谷」と呼ぶようになる。
テーマ:京都の写真 - ジャンル:日記
- 2009/06/29(月) 15:37:26|
- 寺
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2