浄土宗総本山
知恩院 (ちおんいん)
京都府京都市東山区林下町400
知恩院 (ちおんいん)は、浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)と称する。
本尊は法然上人像および阿弥陀如来、開基は法然上人(ほうねん)である。
浄土宗の宗祖・法然(ほうねん)が後半生を過ごし、
没したゆかりの地に建てられた寺院で、
現在のような大規模な伽藍(がらん)が建立されたのは、江戸時代以降である。
将軍家から庶民まで広く信仰を集め、
今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」と呼ばれている。
知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然、ほうねん)が
東山吉水(よしみず)、
現在の知恩院勢至堂(ちおんいんせいしどう)付近に営んだ草庵をその起源とする。
法然は唐(とう)時代の高僧・(善導)(ぜんどう)の著作『観経疏』を読んで『
専修念仏』の思想に開眼し、
浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安五年(1175)、43歳の時であった。
「
専修念仏」とは、いかなる者も、
一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。
この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。
法然は建永二年(1207)には現在の四国、香川県に流罪となり、四年後の建歴元年(1211)には許されて都に戻るが、翌年の1月、
80歳で没する。
法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、
当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。
ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、
浄土宗の中心地となった。
ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、
嘉禄三年(1227))、延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒によって破壊されてしまう。
文歴元年(1234)、法然の弟子にあたる勢観坊:源智(げんち)が再興し、
四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。
その後火災や応仁の乱(おうにんのらん)などで焼失するが、その都度再興されている。
現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。
浄土宗徒であった徳川家康は慶長三年(1608)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。
造営は二代目将軍、徳川秀忠に引き継がれ、
現存の三門は元和七年(1621)に建設された。寛永十年(1633)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、
三代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永十八年(1641)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや
知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、
京都における徳川家の拠点とすること、
徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと云われている。
テーマ:京都の写真 - ジャンル:日記
- 2009/01/09(金) 12:05:16|
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